時間が重なる 境界がとける はたらくこと、地域で暮らすこと、家族と過ごすこと、趣味なのか、仕事なのか、遊びなのか、休憩なのか、活動なのか、日々の学びは生活にも仕事にもいかされる、生きることそのものが次世代へつなぐことそのものだったりもする。
1日が24時間あれば、もっと長く生きられれば、その願いはかなえられることもなく、平等にあたえられ、生きて、死ぬ。
ぼくは何か動いていないとあわない性分なのか、あれとこれとそれを同時にやるという癖がある。いつぞやから、どう頑張っても一人ではやれない量になり、100%思ったとおりにはできない壁にぶちあたり、逆に想いも見ないことならみんなでやると何倍ものことができることに出会い、あれもこれも欲張りに全部みんなでやれるようにと考えて行動するようになった。
「1度にたくさんのことが関係しながら過ごす時間。」これからの暮らしかた、はたらきかた、生きかたへの着眼点のひとつであると思う。子育てしながらはたらく、介護をしながらはたらく、地域と関わりながらはたらく、学びながら暮らす、仲間との活動を地域でおこなう。
時間は重ねられる。
我が家では、「その選択は家族と一緒にいられるか」が何かに参加するとき、仕事をうみだすとき、行動するときの判断基準になる。子どもが一緒にいられる会議なら出られる、一緒にいてもいい職場ならOK、子どもが満足できるイベントや彼らなりの時間が過ごせるイベントならOK、野良仕事ならいっしょにできる、薪配達もいっしょにいける、夏のサマーキャンプなら他の子どもたちといっしょにいられるなどなど。すべてそうできるかというともちろんそうではないけれども、重ねられることはすべて貪欲に重ねる。
時間は重ねられる、でも、空間は重ねることができない。重ねることができない旭という土地と出会ったおかげで心安らかに時間を重ねることができるようになった。2軸を宙ぶらりんにして生きていけるほど器用ではないようだ。
体はひとつ。その体がどこにあるのか。「いる」ことを軸にモノゴトを考えて行動していける。「いる」ことをベースに時間の重ねかたをつくりだす。ひとりでは生きていけないので、仲間たちといっしょに重ねていく。
空間を軸に時間と仲間が網の目のように重なっていくなかに
つながりながら生きるご機嫌な人生がある
と信じている
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