新しく何かに取り組むときに、不思議なものを道しるべ絵にしたりする。

今日は、新スローライフ通信 平成28年9月号に寄稿した全文を掲載しながら、なかなか表現が難しい、判断をするプロセスをご紹介しますね。季節があわないのはご容赦くださいませ。

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旭の山里では朝晩ぐっと肌寒くなってきた。夏休みも終わり束の間の平穏な時間が流れている。子どもたちと川にはいると体の奥のほうまで冷たさが沁み込む。虫の音も、いつの間にかヒグラシからスズムシへとかわっている。

はじめてスローライフ通信へ寄稿する。何を書いてもいいということなので、ふと他では書かないような、内面的なことを表現しようと試みることにした。

旭に住むようになって、いろいろな仕事や役割を担うようになるのと同時に、「風」を感じて、その「風」に自分のありようをあわせていくようになった。

「風」とは、なんとも表現しにくいが、過去から現在、未来へつながっていく「時間の流れ」、ひととひと、役割と役割、自然なものと自分、などの「間」、自分の「心根」の状態、などが重なり合ってなんとなく感じるゆらぎのようなもの。

夫婦のあいだでは、その方向も含めて「風向き」と呼んでいる。追い風のときは、そろそろっとペースを落としたり、向かい風のときは、ゆっくりと進んだり、無風のときは立ち止まったりする。「最近、風向きがわるくなってきたんじゃない?」と、なんとも不思議な感じだが、目に見えるメリットデメリットよりも、その一言で物事が決まる。そうそう頭と体が離れているときによくそうなる気がする。

そもそもこれは嫁さんの感性だ。あらゆるつながりを同時に感じて、つながりのなかでの自分を見つめる行為ではないかと思う。そこでは、じぶんもまわりもゆるゆるとしたとらえどころのなくつながったマーブル模様のような絵が浮かぶ。「風」によって、カタチがかわる。自分の想いだけではどうにもならないことはわかる。そう、どうにもならないのだ。いつの間にか居心地のよいカタチに整えられていく。

この世に生を受けて35年、嫁さんと出会って13年、旭に住んで6年、無数のつながりのなかで生かされていることを実感できること、どうにもならないことに委ねられること、何より心地よいと互いに感じられる仲間、居場所、自然があること、ありがたいと思う。

これからも「風」を感じて生きていきたいと思う。

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